私はよく「いまどきの若者たちが、アルバイトの時間を割き、寝る間も惜しんで、どうして他人の子のためにがんばるのですか」と聞かれます。どうしてこんな仲間の関係ができるのか、指導員たちはなぜこんなにがんばれるのかを考えました。
これもいろいろな所にたくさん書かれていますが「別冊・東京の子ども会少年団 Vol.8」に書いてくれた、指導員たちの思いから引用しました。
納得しながら自然体で育った場所だから
まず、テーマ別プログラム責任者のケンイチ君は「ふりかえってみると…」と、
「指導員のことをあこがれとしてではなく『うるさい』存在と思っていた小学生だった私が、人前で話すことが苦手な中学生だった私が「行事の責任者なんか絶対にできるわけがねぇ」と思う高校生だった私が、指導員となり青年となり、おまけにキャンプ村の生活指導責任者などを経験して今にいたっているのだから、人生というのはわからない。
特に、指導員となり気づいたら少年団にどっぷりとつかっていた。ともかく充実していたなぁと思う。テストがあろうが少年団に行った。それを言い訳にするのはイヤだったし、会議や団会がおもしろかったからだ。
少年団やってなかったらもう少し人生の幅は狭かったなと今でも思う。では、何が、そこまで私を少年団にひきとめているか?正直言うとわかりません。ただ、団会の終った後、責任者として行事を終えた後、などなどに残る充実感、充足感これが何にもかえがたいものである。俗にいう「達成感」が学校や友人関係よりはるかに大きい気がする。これは、今も昔も変わらない。
あとは、子どもの成長ってやつが徐々にではあるが感じられる時に「ニヤリ」としてしまう。月1回の団会での顔合わせでも2年、3年とつきあっていると、そういうのがわかってくるのだから面白いものである。
キャンプ村の生活指導2年目の時、大キャンプファイヤーで盛り上がった、子どもや指導員の顔を見た時「少年団やっていて良かったなぁ」「こんな経験、他じゃできねーな」と感動したりもした。
そうした、「瞬間」の大きさこそが、少年団の実力なのかもしれないなど、一人で定義づけてみたりもした。少年団って所は、子どもたちが一番自然に育っていく場のように思える。子どもたちが自分のやる事、言う事に自信、責任をもてること、おしつけではない何かが存在する空間でもある。
とはいっても、少年団は理想郷ではない。けんか、ののしりあいなどのいざこざも多くある。でもそうした良い事悪い事を経て、成長して欲しいなどと思う。少年団が、その子にとって自慢になるようなものであるとうれしいなぁ。
私は、21年間生きてきたが、人生を振り返ると少年団はずいぶんとウェートをしめている。それが良いことなのか悪いことなのかは知らないけど、私自身には後悔はない。冷めていてひねくれたクソガキが少年団等でいろんな経験をして今の私となっているのである。当時を考えると想像もつかないから面白い。少年団を振り返るたびに、私はいつも思うのだ。「思えば遠くへきたものだ」」
と書いています。
「友だちをたくさん作って欲しいから」
今年のキャンプ村で、池川さんの息子のユウイチ君たち、自治委員会の担当をしたワカナさんは。
「少年団の思い出といえば、私はまず中2のキャンプを思い出す。幸せというのはこういうことをいうんだと、みんなで歌を歌っているときに思った。こういう気持ちをみんなに味わってもらいたい。
少年団に入っている子どもたちは、とにかく友だちを作ってほしい。性別、学年に関係なくいろんな人と話をしてほしい。すぐグループを作ってかたまってしまう子どもたちがすごく多い。
学校生活で、先輩、後輩の関係を植え付けられているのか学年が違うとそこに線を引いてお互いに話しかけもしないということがしばしば。学校が違ってもそういうことが起こる。
友だちは多い方が良いという感覚はあまりないのかもしれない。せめて、少年団では、学年に関係なく友だちを誰もが作れるようにしていきたい。」
自分の成長を感じられるところだから
自分自身を見つめて書いてくれているのはカズヤ君です。
「小2の頃から竹の子少年団に入っていて、指導員になりました。その頃は、実力派の青年指導員がたくさんいました。ギターのうまい人、盛り上げるのがうまい人、みんなをキュッと締める人、すごく個性的で魅力的だったので高校生指導員の私は、何をすべきか解らなかったし、子どもたちに対して臆病だったので自分に自信がもてなかった。
ビクビクしていたので変におどける癖もあって(今もあるけど)、子どもから『キライ』とか言われてその度に自己嫌悪に陥っていた。子どもがキライって言う時は、その言葉の中に『好き』っていう言葉も多少は入っているんだけど、その時はそこまで考えられなかった。
そんなこんなですごくつらいまま高校3年生になった時『アパッチ東少年団』に移るという話が来ました。指導員がいないので誰か来てくださいという事でした。『竹の子』にいるのは100%プレッシャーでしかなかったので迷っているフリだけしてすぐ移りました。
少年団を移って、自分のがんばれる場所があってすごく良かった。ギターはその時下手だったけど指導員の中でコンスタントに団会に出て、ギターを弾けるのは私一人だったので結構練習した。
話し合いは苦手だけど、ゲームや歌を盛り上げるのも任せられるようになったので、すごくうれしくてはりきった。空回りもたくさんあったし、子どもともぶつかった。それでも1つ1つが楽しくなってきたし、少しずつ現れてくる成果を自分の目で確認できるようになった。
少年団を移って一番見えたのが『自分の弱さ』だった。
竹の子少年団から逃げ出した時、あの時もっとがんばれば自分自身の事をちゃんと見つめられたと思うし、青年指導員たちと本音でぶつかっていたら、きっとものすごくつらかっただろうけど人間としてもっとでっかくなれたと思うし、何よりもあの時逃げ出したのは、そういうすごくつらくて、めんどうくさくてっていう事とそれをつらいと思っていた自分から逃げたのだと思う。
他の人よりもすごくスピードが遅いけどやっとそういう事が考えられるようになったし、自分の弱い所をすなおに見られるようになったら、自分の事をちゃんと褒められるようになった。何よりも悲観するだけじゃなくてどうするのかを考えられるようになった。」
自分を受け止めてくれる人の大切さ
自分が体験した楽しかったことを伝えたい、自分が感じられる変化 = 成長を良かったと思うから、こういう場所を大切にしたい。大切にするためにがんばるとまた自分が変われる。この実感があるのだと思います。だから彼等はボランティアと言われるのをきらい、自分のためにがんばるのだと言います。
それをよりはっきり書いてくれているのが、三鷹の少年団の指導員、リョウコさんの「人との関わりの中で育つ」(44ページから)です。
これを書いたリョウコさんは自伝的なものを「別冊・東京の子ども会少年団 Vol.7」に書いてくれていますし、大やけどをした彼女の命といじめとの闘いは、書籍「もっと光を」(新樹社刊)としてお母さんの手で出版されています。
私は、レポートの中で、リョウコさんの言う「自分にとって大切な音源」の関係を、子どもと指導員たちの集団は作り出しているのだと思います。「いま、子どもたちが不安と危機の中にいる」、また「子どもは自分との信頼、安心感があってはじめて冒険ができる」「いっしょに手をつないでお月様を見る、そんな幸せ体験を持っている子はがんばれる」とも言われます。私たちはそれを実感していると思います。
子どもにとって、自分をしっかりと受け止めてくれる、安心できる関係が作られることの大切さを、もっと深く考える必要があると思います。私たちの作る人間関係は、子どもたちにとって本当に貴重な宝物のような関係を作っているのだということ、だからこそ齋藤孝先生の言う「あこがれ」や「技の伝え」はより確かなものになってくるのだと思います。