6. 子どもたちが求めているものは何か

「学校は、毎日、ほんとうは我慢して少しの望みを持って行っています。ほんとうは行きたくないんだけど、今日はなにか変るかも知れないと思いながら…また、がんばれるかも知れないから…」


「グングン学校のみんなの『どうでもいいや』という考え方に汚染されちゃうのがこわい…『どうでもいいや』でなく、一生懸命やることがどんなにいいことかみんなに教えたいと思う」


「美しいものは、美しい。と、素直に感じられる子どもの心を忘れないようにしたい…まわりの目を気にして小さくなっている子どもの心をどんどん親や世の中にぶつけていきたいと思います」


「学校の中では死んでいるんだ。まじめなことをいうと『ダサイ』とか『馬鹿じゃない』っていわれるし、学校では自分を押さえているんだ」

 

── 中学生たちの会話です。

 

「いじめがクラスで始まると『おもしろがって見ている』や『できるだけ関わらないようにする』子どもが小学生で48%、中学生では66%におよぶ」


── 横浜大学の研究室の調査結果です。


 客観的にはたいへんな状況が子どもたちを巡ってあるに関わらず、東京都の調査によれば、「現代の青年の意識調査では現状でよしとするか、やむを得ないとする者が多い」となっています。仲間との関係の中では納得できないものがあったとしても、あえて問題としないばかりか、それでよしとする見方が、子どもたちの中にあるのです。

 

 親があらためてまじめな事を子どもに伝えようと思っても「そんなこといったら、友だちに馬鹿にされちゃうよ!」「そんなダサイことできるかよ」「なに言ってんの今じゃそれがあたりまえなの」とまともに受けとめられない状況が現実の問題としてあります。


 しかし、子どもたちが本音のところで諦めてしまっているかというと、けっしてそうではありません。先に紹介した中学生の会話は、流されそうになる自分の気持ちを必死に励まそうとする子どもたちの思いがあふれています。少年少女センターのキャンプ村に来た子どもたちが、「仲間がいる」喜びに感動しながら次のようなことを言っています。
「このキャンプに来て『一生懸命やる』それも『正しいことを一生懸命やる』ということを学んだ。だから、キャンプを自分にしみこませて『どうでもいいや』ではなく一生懸命にやることがどんなにいいことかみんなに教えたいと思っています。」


「おれが最初にキャンプに行ったのは小学校六年の時で、そのとき、ばかみたに感動したんですね。なぜかというとほんとうにマンガの中の世界のように『友情』とか『団結』とか、ふだん友だちと話していて『はずかしい』と思うようなことを、ほんとうにやっていたのに、すごく感動したわけ」


「このキャンプは不思議な魅力を持っているんだよね。外ではどんなにつっぱって『悪いこと』をしてきたとしても、ここでは、自分にウソをつけないというか、自分が正直になって帰る場所があるという感じなんだよね」


 子どもたちが求めているものが見えるのでしょうか?


塾・お稽古事・スポーツ活動と子どもたちの人間的な成長

 

 実際、子どもたちが地域や家庭の中で死んだようになっているのかといえば、けっしてそんなことはないとお思いでしょう。まさにその通りで、子どもたちはスポーツクラブやおけいこごとなどに夢中になって取り組んでいます。


 学校によっては小学校高学年からのクラブ活動で「朝練」から始まり試合前ともなれば夜七時くらいまでの練習はザラ。年間百試合近くをこなすために、ほとんどの土、日曜日をとられ家族そろって出かけることともままならない。というようなことがよく見られます。


 それだけの活動をいやいやではなく、それこそ「夢中」になってやっている。塾やおけいこごとに関してもそうです。先にもちょっと触れましたが、友だちとの関係を切り捨ててでも「○○に行く時間になったから」とサッサと行ってしまいます。


 クラブ活動や、塾、おけいこごとが子どもたちの生活の中で最優先の課題になっていて、しかも、強制的にではなく「自発的に」そういう生活にドップリとつかっていってしまいます。


 ここでは、なぜ、子どもたちがそうした活動に「夢中になれる」のだろうか、その秘密を解き明かし、同時にそれが子どもたちの人間的な成長にふさわしいものなのかどうかを考えます。


目標が見えるから頑張れる


 「そろばんで○級取る!」「今度の大会で○位までに入る!」とかスポーツにしろおけいこごとにしろ、具体的な目標がはっきりしています。「私立中学に受かる」というのも一つの目標でしょう。スイミングなんかでも「五メートル泳げたら○級」とか実に細かく到達段階をしめして子どものやる気をつなぎとめようとしています。


 学童保育の実践でも「けんだま教室」や「こま教室」などで、だれもができるようなことからはじまって「級」や「段」を設定し子どもたちが自分の力に合わせて一段一段目標を高めていけるような工夫をしています。


 子どもの関心に応えるような課題提起と目標の設定、そして、目標に至るまでの、例えば練習方法などの具体的な手立てができれば、子どもたちはその目標到達のために活動にそれこそ夢中になってのめりこんでいきます。「子どもたちが生き生きしてないな」と感じたら、取りあえずその子にあった目標を示すことができているのかどうかを検討してみる必要があります。


 塾、おけいこごと、スポーツ。子どもたちは、一人一人さまざまな目標に向かってがんばっています。しかし、ひとつの大事なものを見逃していないかどうか、ちょっと考えて見てください。子どもたちは何のために目標にむかって必死になるのでしょう。「そこに山があるから」とは、有名な登山家のことばですが「そこに試合があるから」「そこに私立中学があるから」では困るのではないでしょうか。もしそれだけだったとしたら、つまずいた時たいへんなことになってしまいます。


 「好きだから」はじめたはずのピアノも剣道も、その時は夢中でも長続きさせる子はほんのわずかしかいないのが現実です。何枚か集めると景品と取り替えられるカードを配るそろばん塾。「答え合わせ」のためだけに通う大阪商法のチェーン塾。受験対策と称し夜中の十二時まで子どもをしばりつける塾。


 そこには、真に子どもたちの成長を考える姿勢はありません。「お客」である子どもに媚びたり、「受験」という目の前にぶらさがった「目標」にむかって馬車馬のごとく子どもたちを追い立てる醜さを感じるのは、わたしだけでしょうか?


 スポーツ活動については、もっと厳しいものを感じています。K市のサッカーチームのコーチをしていた大里氏は、ある雑誌に次のような一文を載せています。


「勝利至上主義」の影で


 クラブに所属している子どもたちは、朝練グループ、二軍、一軍にそれぞれランク付けられ、試合に出るのは、ほとんど一軍の子だけである。人数の多い学年では三軍までできることもあり、子どもたちは三軍から二軍へ、二軍から一軍へと這い上がることを目指す。万年三軍の子どもたちは、『下手なやつ』というレッテルを貼られ、サッカー技能がすべてに優先する。コーチが一軍のメンバーとポジションを発表し子どもたちはコーチに指示されたことを忠実に守ってプレーする。


 建前では、子どもたちが苦しさを乗りえ、たくましく強くなることを願っているとか、ルールを守りフェアーな精神を身につけるためにという。しかし、教えていることは、勝つためにコーチの指示を守り、ひたすらつらい練習に耐え、友を蹴落とし、相手にけがをさせてでもゴールを奪うという根性主義である。


 心身の健全な発達の「健全」は、勝ったか、負けたかが基準となるのだ。


 だれが何と言おうと彼らに子どもらしい表情はない。得点をしても「ファイトファイト」とかけ声をかけあいながら黙々と走ってくる子どもたちに小学生の明るさは微塵もないのである…。


…教育という営みの本質を放棄し、勝敗に一喜一憂している者は、子どもたちを自己満足のための道具にしていることに気づかねばならない…。


…このような環境の中で、子どもたちの中に非科学的な根性主義と能力によって相手を差別する思想が形成されているとすればどうであろう。


 高学年の特に男子の生活を見たとき、いかに多くの子どもたちがスポーツ活動に関わっているかと驚かされます。また、学童保育を卒会した子どもたちが次々と加わっています。子どもたちが日々、夢中になってスポーツに取り組んでいる姿は、好ましいものです。

 

 だからこそ、親や地域の指導者たちがその活動を通じてどういう子育てをしようかとするのかもっと真剣に話し合う必要があるのではないでしょうか。子どもたちは、夢中になってるし、コーチも熱心にやってくれているのでなんとなく口をはさめないということもよく聞きますが、「仲間を大切にしあう」ことを貫いてきた学童保育の親こそ、地域のこうした活動の民主化のために地域の人たちと共に取り組んでいく必要があります。

 

仲間がいるから夢中になれる


 子どもたちが夢中になる活動の魅力の二つめは、「ともに目標に取り組む仲間がいる」ということです。


 学校のクラブ活動に夢中になれるのも、身近な仲間が一緒に取り組んでいるということがかなりのウエイトをしめています。「○○ちゃんもやってるからわたしにもやらせてほしい」とよく子どもは訴えます。同じことをやるにもそこに仲のいい友だちがいるといないとでは大違いです。


 そういう友だちと共通して取り組めるものがあまりにも細分化、パターン化されていないでしょうか。おけいこごとや塾はもちろんバラバラ、スポーツ活動も好き、きらい、じょうず、へたで完全に仲間関係が分離してしまいます。


 取り組み始めたときは一緒でも、やがて「○○ちゃんは1級までいったのに、わたしはまだ3級。なんだかやる気がなくなってきた」とか「あいつはいつもレギュラーで出られるけど、僕はいつも補欠」というようなことで、活動そのものはもとより、友だち関係もうっとうしくなってしまうということにもなってきます。


 どんな子も一緒になって地域で取り組めるような「遊び」や「活動」が求められています。「学童保育まつり」などで地域の子どもたちも巻き込んで共同の取り組みを作り出してきた学童保育や、そこに関わった人たちの果たさなければならない役割がここにあります。


思いっきりやれる場だから


 「家の中に閉じこもってファミコンやまんがを読んでばかり」「休みの日はゴロゴロしていて困る」というような悩みをよく聞かされます。けれど、子どもたちはそれで満足しているかというと、決してそうではありません。


 小刻みな生活を余儀なくされている子どもたちの解放区は、書道塾やそろばん塾の前です。早めに行って自分の時間がくるまで前の道路でボール投げをしたりゴムとびをしたり、体を動かして遊んでいる。その昔、「ごはんだよ」とよばれるまで遊びつづけてきた路地裏が復活したような雰囲気がそこにはあります。線香花火のようにもろいものだということをのぞけば…。


 中学生になると、深夜までやっているコンビニエンスストアの前が発散するためのたまり場になります。十時を過ぎると塾帰りの中学生がぞくぞくと集まってきます。店の前に思い思い座りこんで夢中になって話をしている。話の内容はTVの番組のことだったり、アイドルのことだったり、音楽のことだったり実にたわいもない話がほとんど。時々、男の子たちがプロレスのまねごとをしていたりする。そこに、オートバイに乗った高校生がやってくる。そのまわりに群がって「先輩」の話をうなずきながら聞いている。一時間以上もそうやってたむろし、深夜になってやっと家に帰っていく。彼らにとってそこしか安心しておしゃべりできる空間、時間がないのかもしれません。


 子どもたちはどんな状況の中でも体から湧き上がってくる「思いっきり体を動かしたい」「思いのたけを話したい」「成長したい」という要求に身を焦がすような思いをもっています。その要求を満たす道をみつけられない多くの子にとって、スポーツに夢中になったり、たまり場としてそろばん塾に通うということも、ある一面では子どもたちの要求のひとつなのです。


 学童保育で育ってきた子どもたちの人間的な成長要求を受けとめる場をつくる仕事をほんとうに「塾」や「習いごと」「コーチに言いなりのスポーツ団体」にまかせっきりっていいのでしょうか?


 学童保育という「施設」で子どもを育てるのではなく、学童保育もある「地域」の中での子育てをしようと貫いてきた私たちにとって、「発達したい」という子どもたちのエネルギーを正しく引き出せる場を地域に作りだすことが、この点からも求められていうのです。


熱心な指導者がいるから


 目標がはっきりしている、仲間がいる、発散できる場になっていることの意味をこれまで明らかにしてきました。


 かつて空き地で、神社の境内で十数人の仲間と毎日のように陣とりやかんけり、長馬で遊び呆けていた時代。今日はザリガニ釣りだと、近所の池にスルメを持って集まり、次の日は「洞窟探検」とロウソクや懐中電灯を持って川っぷちの「洞窟」に集まっていた時代。毎日、何かしらの楽しい目標があり、集まる仲間がいました。


 大人なんぞは、目に入らなかった。子どもたちのわくわくするような遊びを禁止し、楽しい遊び場から排除しようとするのが大人の役割でした。しかし、子どもたちは、そんな大人の目を逃れて、自由な遊びを展開していました。もっとも、大人たちも今のように神経質ではありませんでしたが。


 子どもたち自身の中から遊びが生まれ、泉のように広がっていた時代と、今の子どもたちの置かれている状況とは格段の差があります。あまりにも細切れの生活の中で仲間の輪も小さくなり、のびのびと、時には冒険のできるような遊び場を失っている子どもたちが、自分の持っているエネルギーをぶつけて自らの力で生き生きした生活・遊びの目標や、何かができる大きな集団を作り出していくことは困難極まりないことです。


 習い事やスポーツの成果ではどうでしょうか。そこには、熱心な指導者がいて、時にはやさしく、時には厳しく励ましながら専門的な技術を教えてくれます。子どもたちが夢中になる秘訣の四番目が「熱心な指導者の存在」ということです。


 私たちは、学童保育で専任の指導員の存在の大切さを痛感してきました。指導員がていねいに子どもたちに関わってくれなければ、3年間の学童保育の生活を有意義なものにすることは、できなかったでしょう。いくら学童保育の3年間が集団的なものであったとしても、4年生の時期に「君たちは経験が少しはあるのだから自分たちでやってみなさい。」と言っても、子どもたちの状況を見れば、実に困難なことは明らかです。ギャングエイジといわれる小学校高学年の発達段階のふさわしい集団的な活動を保障する指導が必要なのです。


 先の大里氏は、「親も、教師も、クラブのコーチも、塾の先生も、それぞれ子どもたちを良くしようと真剣なのである。しかし、個々の活動が総合され全体的視野から捉えられた時、それはとても異常な状態なのではなかろうか。小学校2年生の子どもが4人集まれる日はスケジュール的に週1回あるかないか、という現実の中で、子どもたちの正常な発達を保障する地域の機能と組織のありかたがまさに問われていると思うのである。」と述べているが、まさにそのとおりだと思います。


指導の姿勢は民主的か


 学童保育を卒会してのんべんだらりと毎日を過ごすのでなく、何か目標を持って生活をして欲しいと、どの親も共通の願いとして思っています。そして、そのために塾や習いごと、スポーツクラブに入ることを熱心に勧めます。それはそれとして悪いことではないのですが、親の思っている方向性がちゃんとしているかどうかということはきちんと話し合っておく必要があるのではないかと思います。


 塾やスポーツ活動の中で子どもたちが得てくるものがほんとうに親の願っているものと同質のものであるかどうか確かめる必要があります。「心身ともに健やかな子に」と誰もが願っています。それは、友だちとの関係で言えば、優しさであり、思いやりであり、相手を馬鹿にしない子であり、多くの仲間と一緒に何かをやれる子であって欲しいということでしょう。


 こうした人間性はただある活動を夢中になってやっていれば自然に身につくというものではなく、具体的な場面でまわりの人間 ─ 特に大人の姿勢が決定的に重要な意味を持って子どもたちの心に迫っています。


 以前こんなことがありました。


 児童館の行事に1人の小学校5年生の子が参加していました。すでに行事は始まっていました。そこにユニフォーム姿の男の子たちがゾロゾロと入ってきました。「なんだい?」と聞くと「○○くんを呼んでくれ」と言うのです。「どうして」「監督が呼んでこいと言ったから」「でもね、この子は今日は児童館の行事に参加するということで野球を休んでいるんだから、監督さんも知ってるはずだから、君たちからも伝えて」と言っても彼らは立ち去ろうとしません。「でも連れてこいと言われたから連れていかないと僕たちが怒られる」と当の本人も間に挟まって困ったような顔をしています。「とにかく今日は、最初からそのつもりで来てるんだから、もし監督さんがどうしても用事があるんだったら直接来てくださいって先生が言ったと言えば君たちも怒られなくて済むだろう」そこまで言ってやっと納得して帰っていきました。


 こういう仲間の関わり方を私たちは、望んでいるのでしょうか?


 監督の言うことを聞かないとレギュラーにさせない。「髪を短くしてこないやつは試合に出せない」というような人も結構います。「ミスプレーすると『けつバット』なんだぜ!」と子どもたちが言っている場面もありました。


 大人の独断と、暴力的な管理の中ではたして心豊かな人間が育つのでしょうか。そういう人間関係を子どもたちが「夢中になって」学んでいるとしたら…。学童保育に子どもを通わせるようになった時とは比較にならないほど「子どもをどう育てるのか」という親の姿勢が問われてくるのです。