2. 戦後における子どもたちの育ちの変化とその背景

   ~ 特に「社会化」の観点から ~

二つのキーワード ― 「社会化」と「社会性」


 問題を考えるための道具として、二つの言葉にこだわってみたいと思います。社会学系の学問では、「学びや経験を積み重ね、自分が属する社会を構成する一人前の人間として、期待される知見や人間関係のルールを身につけたり、資質をみがき、一人前になっていく過程」を「社会化」と呼びます。教育の本質の一つは、「意図して社会化を促す営み」とも言われますが、「社会化」という概念で捉える現象は、教育学で「発達」と表現することとほぼ同じと考えていただいてよいと思います。


 もう一つは「社会性」です。「社会を作って生活しようとする、人間が持っている根本的な性質。社会を維持していくために有効な資質、能力(但し、この具体的な中身は、各々の社会によって異なります。)」といった位の定義で良いと思います。以前から、「人類は社会的な動物」と言われてきました。これまで世界の文化人類学者が調べたところでは、いずれの社会にも属さずに(=他者といかなる関わりも持たずに)生きてきた・いる人間は発見されていません。そもそも赤ちゃんは無力であり、必ず誰かのお世話にならないと生存できないわけですから、当然です。「社会化」は、正に「社会性」を身につけることによって達成されるプロセスです。


 では、「社会性」はどのように身につけられて行くのでしょう?「社会化」には、およそ三つの段階があるようです。乳幼児期、人間は誰しもとかく大人の世話がかりです。両親が属する社会の「良いとされること、悪いとされること」(ものごとの判断の拠り所になる最も重要な価値観。ある社会が担う文化の核心と言われ、また、時代の推移と共に、少しずつ変化します。これを「規範」とも呼びます。)を「しつけ」を通して概ね一方的に身につけさせられます。


 やがて学童期=学校に入学する頃になると、同年代=数歳位の幅で友だち付き合いが広がり(異年齢集団)、多様な性格の人間の存在を知ると同時に、遊びやけんかなど、様々な場面で人間関係作りを繰り返し経験します。遊びにも、集団の維持にもルールが伴うので、自分たちで自前の決まりを作り、自治の力が培われます。伝統的には、お祭りなど、地域で行われる行事が多々あり、例えばそうした機会への参加を通して、自分と同じ生活圏である地域に一緒に暮らす様々な大人たちとの交流も拡大する時期でした。本来、異年齢の子ども集団内の付き合いと、こうした大人たちとの交流を通して、「規範」を含む地域の文化が伝承されてきたわけです。自分が属する社会において期待される「社会性」とはどのようなものか?少しずつ悟りを開く時期とも称せましょう。


 さらに話題の「14歳」位になると、正に青年期。子どもたちはますます行動半径を拡大し、様々な人生や価値観との出会いを経験します。抽象的な思考力も高まるので、書物を通じた人生や価値観との出会いも生じます。教育学や心理学では、しばしば「自我の目覚め」などと称しますが、自分らしさ・自分の生き方の探求も始まります。しつけられた価値観が再考される一方、新たに出会った人生や価値観を取り込んで、独自な人生や価値観の模索が行われたりもします。個人的な経験で恐縮ですが、私は、中学・高校時代に、ボランティア活動や社会教育の機会などを通して、生き方において、現在に及ぶ重大な影響を与えられる出会いを複数経験しました。今の私があるのは、明らかにこの人たちがいてくれたおかげです。青年期にどれだけ感動的な出会いを経験できるか?正に一生の問題なのです。


 では、日本の子どもたちは、そもそもどのような「規範」や「社会性」を身につけたり、そうすることを期待されて生きてきたのでしょうか?


高度経済成長期以前の日本


 現在、日本は、アメリカと並んで世界を代表する経済大国です。しかし、かつては農業を基本とする国でした。特に近世以降は、年貢の対象となる米を作る必要から、稲作の振興が全国的に普及しました。稲作は、今でこそ機械化が進み、田植えも稲刈りも大人一人で3日もあれば終わりというところが全国一般的ですが、それ以前は大変でした。近隣や親戚の家が協同して、それこそ1ヶ月以上もかかって作業を終えたのです。日本のお年寄りのイメージは、腰が曲がり、杖をついて歩く姿でしたが、それは過酷な田植えの手作業を毎年余儀なくされて来たからだったのです。


 「我慢」と「忍耐」は農業をこなしていくために不可欠な「規範」でした。役所もない時代、農業に不可欠な農道や用水路を整備するのも自前の仕事でした。村中総掛かりで取り組んだのです。いえいえ、日々の暮らしの助け合いからお葬式、結婚式にいたるまで、生活のあらゆる面が近隣や親戚の人たちとの合力=協同の機会であったといっても言い過ぎではありません。協同の積み重ねの中で人間関係の訓練が施されると同時に、自ずと「協調性」、「責任感」、「礼節」などの「社会性」が尊重され、培われ、子孫たちへと伝えられていきました。


 ある村に生まれ、隣近所の子どもたちと一生涯の付き合いを続け、そこで亡くなるのが普通でしたから、どの家の子どもたちも、やがて村全体の自治の担い手でもありました。「村の子ども」を一人前に育てる=「社会化」させるために、村の大人たちみんなが、村中の子どもたちの育ちに目配りと支援を行ったのです。このような協同と連帯感に彩られた地域社会を「共同体」と呼びます。さらに、男子は家業の継承か奉公しての独立、家の相続か分家が、女子は嫁に出て、やがて主婦になるというのが一般的であり、言わば、親が歩いて来た道を歩くことで、一面では安全、確実な人生行路を進むこともできたのでした。「社会化」の道筋がハッキリしていたのです。


高度経済成長と産業化がもたらしたもの


 しかし、昭和30年代半ば、もしくは1960年代前半に生じた高度経済成長とそれが促した戦後の急速な「産業化」が、そうした日本社会の伝統を大きく変えてしまいました。「産業化」とは、別名「工業化」ですが、生業の主体が農業から工業にかわる変化のことを意味しています。やがて商業やサービス業も盛んになってきます。この時期の「産業化」は、概ね五つの大きな副産物を生み出したと思われます。


▽ 過疎化と都市化=地域社会の本質の変化

 工業や商業が盛んになって来ると、工場や会社で働く人が必要になります。工場や会社は立地条件が良い土地に増えて、やがて都市ができます。しかし、もともとその土地で暮らしていた人たちだけでは工場労働者もサラリーマンもまかないきれないので、地方の農村や漁村に求人の呼びかけがなされます。こうして都市には全国各地の農村や漁村などから大量の人々が集まり、素性を知らない人同士が、何の協同も連帯もないまま匿名で暮らすような地域社会ができてきます。「都市化」と呼ばれる社会変化の一面の本質はこういうものです。


 一方、工場労働者やサラリーマンを送り出した地方の農村や漁村などは、村で一緒に暮らす人間が減って、「過疎化」という社会変化に直面します。しかも、都市に出て行く人の多くは若い世代なので、行事の担い手がいなくなるなど、地域社会全体に活力がなくなります。人口構成のバランスが崩れ、高齢化も進みます。次の時代を担う子どもが生まれないので、地域社会そのものの維持が困難になったり、消滅した事例も生じました。(離村)大切なことは、「都市化」した地域社会も「過疎化」した地域社会も、そこにはもはや「共同体」の性格が認められないということです。

 

▽ 農業に根ざした価値観の衰え、協同の機会の減少

 農業が斜陽になるわけですから当然の結果です。農業や農村の維持に必要とされる協同の機会が減ることは、人間関係を訓練する機会の減少でもあります。「忍耐」、「我慢」等の「規範」や、「協調性」、「責任感」等の「社会性」が省みられなくなり、伝承されることもなくなっていきました。


▽ 生き方、価値観の多様化

 様々な職業に就くことが可能になり、それぞれに固有な生活スタイルや価値観が台頭してくることになります。また、相互に利害関係の対立が生じたりもするようになります。多様な生き方や価値観の共存を求める世の中の動きが次第に拡大することになるのです。


 「社会化」のルートがいくつも登場し、それを子どもたち、青年たちが選択する時代になったとも評せましょう。楽しみもありますが、かつて親の歩いた道を自分も歩けばよかった時代の確実、安全性はなくなりました。

 

▽ 新しい情報や知識の絶えざる普及

 「産業化」とほぼ同時並行で進行したのは、特にテレビの普及に伴うマス・メディアの影響の拡大です。世界中の動きを瞬時に知ることができるのは大変便利なことですが、次々と新しい情報や知識が押し寄せてきて、やがてそれに翻弄されるといった事態も生じるようになりました。「流行」(を追う人々)、後には「トレンド」といった概念が登場することになった背景がここにあります。


 また、情報や知識には、少なからず何らかの価値観が含まれているので、これによってますます価値観の多様化が拡大することになりました。一体、今の世の中の「スタンダード=標準となる価値観」とは何なのだろうか?次第に多くの人たちが混乱する時代を迎えることになっていきます。


▽ 物質的に豊かな時代の到来

 工業は物を作る生業であり、商業はそれを流通させるわけですから、人々は物を手に入れやすくなり、様々な生活財が満ちあふれた暮らしが実現することになりました。


「現代っ子」の登場


 こうして1960年代も半ばになると、従来見られなかったタイプの青年たちが出現しました。「ヒッピー」、「フーテン」、「長髪族」、「ミニスカートをはきこなす女性」等がそれで、大人たちは青年たちの自由奔放な自己主張に驚き、警戒感を強めたのでした。しかも、こうした新たな傾向は子どもたちにも現れたのです。「現代っ子」と呼ばれた子どもたちの登場です。戦後、子どもたちの育ちの変化が社会問題として注目されたり、論じられた最初がこの時と思われます。実は、「現代っ子」には、その「現代性」を表現する形容句がついていました。「勤勉さやモラルを欠いた現代っ子」だったのです。「我慢」や「忍耐」等の「規範」、「礼節」等の「社会性」の衰えが特に注目されたのでした。


 要するに、新しいタイプの青年や「現代っ子」に共通していたのは、伝統的な価値観や生き方に囚われないという特色です。農業や農村を基盤にして培われた「規範」や「社会性」といったものが既に伝承されなくなり、影が薄くなってしまっていたのです。


「三無主義・五無主義」な子どもたちの登場


 それからおよそ10年後の1970年代半ばになると、「現代っ子」の姿を引きずりながら、また新しいタイプの子どもたちが登場してきました。「三無主義・五無主義」といった言葉で形容された子どもたちのことです。感性が鈍く、何事にも消極的・受け身、責任感などの「社会性」の衰えが特に注目を集めました。戦後、子どもたちの育ちの変化が社会問題として注目された第2幕です。


 この頃、世の中は「消費社会」と呼ばれるようになっていました。「産業化」が大いに進み、もはや物は巷間に十二分に満ちあふれ、ほしい物は概ねいつでも容易に手に入る状況となっていたのです。物を手に入れるためにあくせく働くより、それを消費して楽しむことに価値が見いだされる時代がやってきていました。しかも、商業の発達で、至れり尽くせり、より一層消費者本位に便利に加工された商品の開発と流通が促されました。私は中学校2年生であった1973年の夏に、生まれて初めてカップヌードルを口にしたことを今でもよく覚えています。「何と簡単な!」と、子どもながらに強い印象を与えられたからです。もはや食事作りはお湯と3分という時間があれば誰でも可能になったのです。


 「三無主義・五無主義」の子どもたちは、同時に、「リンゴの皮がむけない」、「鉛筆が削れない」等と揶揄された子どもたちでもありましたが、自分で創意工夫したり、何かを成し遂げるために試行錯誤するとか、困難を経て物を手に入れるなど、既に自前の努力をあまり必要としない状況の下で生きてきていたのです。当然、自分で問題を発見したり、解決する能力は衰え、達成感や充実感などの感動がないから感性も育まれなかったわけです。


 一方、時代は「受験戦争」たけなわでもありました。「高度経済成長」と「産業化」で躍進した企業は、さらなる成長を遂げるために企業戦士たりうる優秀な人材を求めて大学に手を伸ばします。安全、確実な人生行路につながる「社会化」の道筋として、有名大学への進学というルートが注目を集めることになります。要求されるであろう大量の知識を正確に暗記することが勝利への道であるなら、そこに向かう子どもたちの受動的な姿勢は一層強化されることになります。受験参考書や予備校は、言わばマニュアルですが、それに依存した生活が常態化していたわけです。


 この当時、中学生、高校生であった子どもたちが、現在、概ね小学生の親たちです。そもそも親たちが身につけることが期待される「規範」や「社会性」が曖昧な時代を生きてきたわけで、結局そうしたものが身についていないのですから、それを子どもたちにしつけたり、伝えようがありません。近年の子どもたちに「規範」意識が低下していると認識されるとすれば、困ったことかもしれませんが、歴史的にたどると当然の結果と思われます。


 また、この時代に生まれた子どもたちが、概ね乳幼児の親たちです。私は児童館で日々子どもたちと接して来た経験から確信できますが、子どもたちの行動には大人の予測を超えるものがしばしばあり、当然、臨機応変に対応しないと付き合いきれない場合も多いものです。要するに「マニュアル通りにいかない」ということですが、自前の試行錯誤や創意工夫の経験に乏しく、一方、マニュアルに忠実な生活に慣れ親しんできた人々にとって、臨機応変な対応はとかく困難が伴うことと思われます。育児ノイローゼや虐待が増える背景も見え隠れしています。正に、「当世親育て事情」です。


利便さの追求と個人主義の台頭


※ 個人主義 : 個人が有する価値を大切に捉え、その自由と権利を尊重する考え方で、自分勝手=利己主義とは異なります。


 ところで、1970年代は、「消費社会」を生み出した経済発展に俄にかげりが生じた時代でもありました。1973年と1979年に起きた2度のオイルショックが背景です。もはや石油資源を膨大に消費して生産を拡大することが困難な時代となったのです。


 このため、世界の経済大国は、1980年代ともなると、競って機械の「省エネ」、「マイクロ化」を推し進めます。そのための技術開発に力を注ぎます。企業も独創性や行動力に富む人材を求めるようになり、やがて教育や受験のあり方の見直しに、発言が多くなっていくのです。この結果、高性能でコンパクト、利便な機械が次々と誕生し、普及することになりました。パソコンは正にその代表です。1983年に任天堂がファミコンを発売しますが、コンピューターの「マイクロ化」があったればこその出来事です。「同じ部屋にいても群れて遊ぶことなく、一人一人がファミコンをやっている」こんな状況が次第に各地の児童館から報告されるようになってきました。


 利便でパーソナルな使い回しが可能な機器の普及は、その後、遊びに限らず、人々の個人主義的な生活の仕方を可能にし、拡大していきました。1990年代後半、本質はパーソナル電話である携帯電話が急速に普及し、今や高校生の6割が所有する時代ともなりましたが、伏線は既に10年前からあったのです。流通や安全管理のシステムも一段と向上し、コンビニがどんどんと各地に開店する状況ともなりました。昼型の生活も夜型の生活もいずれも可。個々人が自らの理想とする生活のあり方を実現できる条件が次第に整えられていったのです。


 こうした個人の生き方やあり方を尊重する考え方は、この時代、別な立場からも拡大しつつありました。1970年代に国際人権規約が国連に登場し、世界的な人権擁護の新たな指針が明らかにされました。1979年は「国際児童年」、1981年は「国際障害者年」となりましたが、1980年代は、そうした世界的な人権擁護の気運の高まりを背景に、子ども、女性、障害者、少数民族など、従来とかく人権を傷つけられたり、十分な擁護の対象になっていなかったと見られる人々の立場に焦点を当てて、その人権擁護や確立を推進する動きが大きなうねりをみせた時代でもあったのです。


 こうして1989年には、子どもの権利を集大成した「子どもの権利条約」が国連で採択されることになったのです。こうして個人主義ないしは個人の固有な生活スタイルを尊重する価値観が次第に人々の間に広がっていきました。1994年は「国際家族年」でしたが、「Well-being=自己実現」という表現が一般にも知られるようになり、定着の段階を迎えたものと思われます。