3. 気の合うことしか遊べない

「2割が対人恐怖症」── ほんらい友達の輪が大きく広がって行くはずの時期に、2~3人の特に気の合った仲間としか遊べないのには、もう一つの大きな理由があるような気がしています。


「勉強」で自信をなくす

 

 最近の話ですが、1年生の算数の宿題にB4のプリントにビッチリ書いてある計算問題を「1分以内にやってきなさい。」というのがありました。一題を2~3秒でやらなければならない問題です。子どもたちが「先生、時間を計って!」と言うので最初は気楽な気持ちで「ああ、いいよ」と応えていました。1回目、3分くらいかかりました。子どもたちは「エーッ!」とがっかりした声。「もう一度!」と再挑戦しますが、やはり2分くらいかかります。いくらやってもなかなか1分に近づいてこない。

 

 何回かやっているうちに、子どもたちの取り組みかたにいくつかのタイプが出てきました。

 

 ひとつめのタイプは、「最後の最後まであきらめきれずに、言われた通りの時間内でやりきろうとする」子です。家に帰ってお母さんに時間を計ってくれるように頼んで、それこそ「あなた、いいかげんにしてちょうだい」といわれるまで何度も何度も繰り返してやりました。

 

 もう一つのタイプは、「要領よくこなしてしまう」子どもたちです。同じプリントを使って何回も挑戦するわけですから、一回一通りやったら、二回目は計算せずに答えを丸写しして「はい1分以内にできた!」と終らせてしまいました。

 

 三つめのタイプは、「どうせ僕には、できない」とあきらめてしまってやめてしまう子どもたちです。

 

 同じ宿題が、毎日毎日、続けて出されています。見ているとだんだんまじめに取り組もうという子の数が減って行きます。まじめにやろうと、要領よくやろうと、「一分以内にできたか、どうか」だけが問われるとすれば、やがて子どもがどちらを選択するかは、目に見えています。子どもがどこでつまずいているのかを理解してやり励ますために「テスト」を見るのではなく「100点」だったかどうかのみでわが子の「学力」を判断しようとする親も実は、子どもを「第二、第三のタイプ」に押しやっているのではないでしょうか。

 

 要領よく振舞えない子は、そのまじめさのゆえに自身をなくす。最初からあきらめてしまった子はもちろんのこと、要領よく振る舞えてそれなりにやりこなしているように見える子も、逆に自分の本当の実力が見えずに自信を持ち切れない。どのタイプを選択しても子どもたちにとっては、不安な状況にあることにはかわりありません。「馬鹿だ」「できない子」と言われたくないから、子どもたちはまわりの子どもたちのレベルを気にしながらなんとか合わせよう、本当は自信のないことでもなんとかごまかしてできるふりをしょうとすることにむしろ必死になっているのです。

 

 しかし、もし仮にこれが「1題でも2題でもいいから落ち着いてやって、1分で何題できるか試してごらん」という宿題であったらどうでしょうか。10題やった子にも20題やった子にも「がんばったね。今度はもう少し早くできるかな?」と励ましてやれるようなものだったら、一人一人の子が自分の持っている力を十分に発揮することが評価されるような「宿題」だったらどうでしょうか?いまの子どもたちは「テスト主義」すなわち「点数主義」の教育のなかで自分に対する自信を持ち切れなくされているのではないでしょうか。

 

スポーツで自信をなくす

 

 さきほど、「いま、流行っているあそびは?」という質問に生き生きした外遊びが子どもたちからでてこないという話をしました。ところが、いまはやっているスポーツはという質問には、「野球、サッカー、バレーボール、バスケットボール…」と、次から次へと名前がでてきます。スポーツが盛んになること自体は、むしろ歓迎すべきことです。ただ、子どもたちが夢中になって取り組んでいるスポーツの中で何が子どもに育ってきているのかを、しっかりと見ていく必要があるとおもいます。

 

 子どもたちが参加しているスポーツ団体の多くは善意の人たちの力で支えられています。商店街のおやじさんたちが少年野球の監督やコーチをしている。大学や職場のサッカーチームで活躍した父親たちが地域の子どもたちのために貴重な時間をさいて指導にあたっている。ある区では、こうした少年団体が社会教育に登録されている千数百団体の八割以上をしめています。学校のスポーツクラブといわれているものの多くも、じつは、熱意ある一教師の力で支えられているのが実態です。

 

 こうした団体の指導がすべて民主的に行われていれば問題はないのですが、個人的な力量に頼った指導や、子どもの成長、発達についての主観的な判断で指導が行われることが多く、子どもが夢中になって取り組んでいるだけに子どもの成長、発達に重大な影響を与えています。コーチがプレーに失敗した子をバットで殴るなどということが、「子どもに対する愛情」と正当化され、まかりとおっていたり、コーチの言ったことを守らないとレギュラーにさせないと脅かされたりという子どもの教育とは無縁のことがあたりませのようになっています。

 

 人気のあるチームには、四軍、五軍までもあります。そういうところでは、そうとうの力がなければ、レギュラーには、なれません。先日もあるサッカーチームが練習している校庭を見ていました。ふと気がつくと校庭のすみっこで、ひまそうにボールをころがしている子どもたちがいました。「何をしているの?」「練習しないの?」と聞くと、「だって、邪魔になるから端のほうで練習してろって言われたんだもん!」という返事が返ってきました。しばらく見ていましたがその子たちは、ずっと同じ場所で「自主的に」練習していました。「試合に勝つ」ことがチームの目標として優先されるなかでは、練習も必然的に上級クラス中心の練習になり誰もが力を合せてお互いの力量を高め合うなどということには、なかなかならのいのです。

 

 こうした中で地域の子どもたちの関係を見ていると、たいへんなことに気がつきます。例えば男の子の野球です。男の子たちと「野球」で遊んでいると必ずといって言いほど、いじけて抜けていく子が出てきます。

 

 私たちが子どものころは、テレビで少し聞きかじるくらいで、みんな、ほとんどルールを知らないものどうしですから、その場の条件によってルールもどんどん変わっていきました。投げるのが下手な子がピッチャーをやるときにはボールはとらない、打つのが下手な子に対しては、その子が打ちやすいようにゆるく投げたり、一歩前に出て、打ちやすいコースに投げてやったり、みんなが楽しく参加できるように、参加者によって毎回ルールが変わっていました。

 

 ところが、いまは、なかなかそういうふうにはいきません、野球チームに入っているような子は、普段でも「野球やろう!」と誘います。そこにルールをよく知らない子が加わって、逆にリードしてしまったり打たれたボールをとった時に適切な相手に投げられなかったりすると、

 

 「何やってんだよ!」

 「負けたら、おまえのせいだからな!」

 「おまえがいるからいけないんだよ!」

 

と、ものすごく攻撃されます。

 

 それだけ言われれば、たいがいの子は、やめてします。結果として人数が少なくなり、「野球そのもの」も終ってしまい、結局は、みんながつまらない思いをすることになるにも関らず、こうした例は日常茶飯事です。こうしたことは、我が子を見ていただけでは、なかなか気づきません。野球チームにはいっている子だけの集団を見ればそれなりに仲間もいて仲よくやっているように見える。そうでない子の集団を見てもそれだけでは、なにも問題がない。「地域の中でいっしょに野球をやろう!」ということになった時だけ気がつける現象です。

 

 スポーツとして純化された「野球」はできても、「遊び」としての「野球」は、成立しないのです。

 

 ちょっと前の調査ですが、国立精神衛生研究所の調査(’85年)では、中学生の約2割が「他人の目が気になる」「他人が自分のことをばかにしたり、悪く思っているように感じる」などの対人不安感を抱いている、という結果が出ていました。

 

 ある少年団のお母さんが「少年団の集まりで小学生遊んでいる時に、たまたまクラスの友だちが通ったりすると隠れる中学生がいる。」というような話をしていました。先にも「あそびらしいあそび」をさそうと馬鹿にされる、と言った男の子の話を紹介しましたが、その原因のひとつがこうした状況にあるのではないでしょうか。

 

 勉強の面で「落ちこぼれ」る子が「学年×10パーセント」もいるといわれます。小学校1年生で10パーセント。中3では実に90パーセントの子が「おちこぼれ」てしまうというのです。「少しくらい勉強ができなくても、みんなと仲よく、身体を動かして元気に遊べればいい」とよく言われました。しかし、地域から「遊び」がなくなり「スポーツ化」される中で、ここでも多くの子が「落ちこぼれ」て自信を失っていきます。勉強でも、「遊びやスポーツ」でも常に競争させられ、比較されてきた子どもたちが、地域の誰に対しても心を開いておおらかにつきあうように求めても、難しい話です。

 

 「○○しよう!」「鬼ごっこしよう!」とさそった時に「なに?そんな幼稚なことやるの」「あなたばかじゃない!」と言われるかもしれない。例えば、サッカーがやりたくても「一緒にやろう!」とさそった時に「おまえはへただからな!」という言葉の一つもかえってくる。こうした中で、子どもたちの人間関係も変化し、「気の合った、二~三人くらいの子」としか遊べなくなってくるのです。

 

 この子たちとは、それほど比較し合わないでもいい間柄、「なれあいの二人の関係」が子どもたちにとっては、当面、安住できる場になっているのです。ほんらい仲間の輪がだんだんに大きくなっていく小学校高学年からの時期にむしろ逆に仲間との関係が希薄になっていってしまうのです。