自治的な異年齢集団の中で育つ具体的な力
あらためて、ここで自治的な異年齢集団の中で育つ力について整理をしてみると次のような具体的な「力」が見えてきます。
これらは、いま子どもたちに求められている「生きる力」の具体的な中身と言ってもいいものです。次にそういう力が現実の子どもたちの諸問題にどう生きているのかを実際の子どもたちの姿から見てみることにします。
「生きる力」と子どもたちの「生き方」
現代社会の息苦しさに対する子どもたちの悲鳴とも言うべき「事件」や「問題」がたびたび社会的な関心を集めています。「いじめ」「校内暴力」「家庭内暴力」「非行」「不登校」など、この30年間で、量的にも質的にも深刻になっています。地域の自治的異年齢集団(組織)の中で、培った「生きる力」が具体的な子どもの問題の「解決」にどのように結びついているのかをいくつかの事例から考えてみたいと思います。
▽ いじめを乗り越える
「ぼくは、中2の10月ごろから2月ごろまで、中3の先輩グループに、目があったら殴られるイジメにあってきました。『おまえを見ているとムシャクシャする』みたいな感じで、毎日のようにやられていました。
この暴力を受けていたのは、ぼくだけでなく、耐え切れなくて登校拒否になった子もいました。ぼくも正直、学校に行くのがいやでした。でも、殴られながらほとんど無抵抗でがまんできたのは、うまく言えないんだけど…。
ぼくは、小学校1年のときから地域の『大空少年団』という子ども会に入っていました。毎週土曜日に団地の集会所に行くと、あそんでくれるお兄さんがいて、その中のKさんにとてもあこがれていました。
Kさんは、なんでも知っていました。なんでもできる人でした。ぼくの自転車がパンクした時も、タイヤをはずして直してくれたし、釣りに行く時も、ミミズのいるところの見つけ方も教えてくれました。大きくなったらKさんみたいな人になりたい、とずっと思っていました。
なんか、いつも、強くなれ、自分の行動に責任を持て、生きる力を持てというようなことを黙って教えてくれていたように思います。だから、殴られながら、ここで負けたらKさんに笑われる。Kさんみたいになれないと考えていました。だから、つらかったけれどがまんできたように思います」
学校は無謬ではありません。多くの子どもたちが長い時間生活する場所です。多くのトラブルが発生することは当然になることです。その原因を子ども個人の問題に矮小化せずに「なぜ、学校でこういう問題が起こるのか」をきちんとつかんで学校全体で父母や地域の協力を得ながら解決していくことが必要ですが、学校の置かれた立場、そのシステムそのものに問題の根が潜んでいることも多数あるのです。社会の矛盾、教育の矛盾の中に学校も子どもたちも置かれているわけですから、起こる問題を通して、ひとり一人がどう生きるべきかを考えあうことが重要なのです。
事例にあげた子は、中3になって「ぼくを殴った先輩の気持ちがわかった。ぼくだって、何も考えないかのような顔をして笑ったり、あそんだりしている後輩の顔を見るとむかついて殴りたくなってくる」と言っていました。中三の時の学校生活を彼は、こう語っています。
「国語の時間に漢字とかつっかえて読むと『こんな字も読めないで高校に行くつもりか?』と馬鹿にする。生徒指導室とかに数人ずつ呼び出して廊下を走ったとか、細かいことで注意をし、そのうち自分でエスカレートしてぼくらを殴ってくる。二者面談では『おまえなんか入れる高校あるわけないだろう』とまで言われました。『受験』という地獄でした」
教師個人の資質も重要ですが、現代の学校教育制度の中で、こういう空気が醸成されていることを忘れてはなりません。
▽ 不登校をのりこえる
「高校に入学して半年以上、ほんとうに学校がつまらなかった。一生懸命勉強して入学したけれど、何かつまらなかった。私は、中学生の頃、早く高校生になりたかった。自分の中での高校生活というものがすごくばら色だった。
でも実際入学してみると、自分の考えていたものとすごくギャップが大きかった。…朝になると制服を着て、いつもの電車に乗って…いつものように同じ授業を受けている。何の変化もない日が何日も何日も続いた。友だちと話していても、『こんなこと話していても仕方ないから次の話をしよう』と考えたり、話しても会話にならなかったりもした。そんなのがものすごくいやになった。
朝、いつものように家を出た。そして、ホームについても電車に乗らなかった。ずっとラッシュが終わる間で駅のベンチに座ってボーっとしていた。電車がだいぶすいた頃、学校とは反対側の電車に乗った。…その時は、自分が次に何をするのかぜんぜんわからなかった。
…そして、夏の学校のことを思い出した。指導員会議で、『今年は学校に行けていない子の参加が多い』と聞いたとき、まず思ったことは、たいへんそうだな、だった。これは、いま思うと相手に対して失礼な言葉だった。実際、7日間みんなといっしょに生活して、どの子が学校に行ってないかなんていうのは、まったくわからなかった。みんなものすごく元気でパワフルだった。
私は、少年団や夏の学校のような場には、ちゃんと個人個人の居場所みたいなものがあると思う。たとえば班会議でのひとり一人の感想や発言を聞いていて『あーみんな自分の意見をちゃんともっているんだ』と思った。ふだんの学校生活では、一人が意見を言えばみんなそれに賛成するパターンが多い。だから、ほとんどの人が『誰かがなにか言うからいいや』と考えていると思う。
でも、夏の学校では、たとえどんな小さな意見でも発言すればそれについていろいろ考え、そして改善されて行く。お風呂に入りたいとか、廊下にゴミ箱を置くとか、荷物を整理しておくとか、ごくあたりまえのことだけどこのままにしておくと生活できない。一人でもそれに気づくとすぐ意見を出す。ここまでできるのには、一種の雰囲気をそれなりにつくらないと無理だけど、…みんな中学生だからそういう雰囲気も自然と作り出していけた」
子どもが不登校になる原因はいろいろでしょう。イジメが原因になっている子もいます。まわりの子どもたちや先生たちの示す態度に不信感や恐怖感を募らせていけなくなる子もいます。何がいやなのかわからないけれど、自分の存在感を感じられずに、居ても仕方がないという自己否定の気持ちで通えない子もいます。
さまざまな原因がからまりあいながら、本人にも何が原因でどうしたらいいかわからずに学校に行けなくなってしまうのです。無理に行こうとすると心身にさまざまな変調をきたし、そのことでまた学校に足を向けることができなくなってしまうのです。
ここで紹介した子は、自分が不登校になりそうになった時に、不登校で悩んでいる子どもたちといっしょに生活をしたことで、実は彼らが特別な子ではなく、そういう「雰囲気」さえあれば、自分の意見をしっかりと述べ、その実現に向けて努力をし、明るくがんばれる力を持っていることを感じ、そのことが自分の生きる力にもなっていることを全身で感じ取っているのです。
▽ 人間不信を乗り越える
「夏の学校へ行って、まず『ハジ』を捨てることを覚えました。レク係になって『はずかしい踊りをやらされるぞー』と言われた時に『やべえ!しまった!』と思いました。
レク係の打ち合わせが始まった時でした。『明日の朝に何をする?』とみんなで相談して『ブータソング』という踊りをやろうということになって、朝のつどいの時、『はずかし~い踊り』をやりました。次の日も次の日も『銀河系音頭』や、ついには『TOTOべンキ』などという踊りまでやって、本当にはずかしい毎日でした。
だけど、踊っているうちに『はずかしい』が『楽しい』に変わっていきました。自分がどんどん変わっていくような気がしてなんだかとても楽しい気持ちに変わっていきました。
6日目の夜のキャンプファイヤーが楽しかった。ものすごく大きな火になって、みんなと歌って踊ったのがとても楽しかったです。思い出に残る夏の学校でした」
中学2年生の男の子の感想文の一節です。最初は照れたけど、「恥ずかしい踊り」にはじけることで自分の中の何かが変わったと感じ、キャンプファイヤーでも「みんなと歌って踊ったのがとても楽しかったです」と感想を締めくくった彼。そんな彼の父親が話してくれたのは、次のようなことでした。
「息子は、今年の5月ごろからいじめなどが原因で学校に行かなくなってしまいました。死ぬことばかり考えて、高層アパートの屋上に何度も行ったり、先生に相談しても受け止めてくれないということで、誰も信じられないと、人間不信になってしまっていました。先生に触られるのもいや、中学校の中に入ることも拒絶していました。無気力で夏の学校の出発の日も何の準備もしません。私が荷造りをし、送ってきました。
夏の学校からの帰ってきた息子はイキイキとして、出会った友だちや、夏の学校のことを話してくれました。目つきも顔つきまでも変わったように私には見えました。人間への信頼を回復することができたと思えました。『先生が悪いんじゃない』といいながら金曜から始まった学校へ行き始めました」
中3の夏休み、ファイヤーを囲んでの中3交流会で彼は、
「中2のとき周りの人に会うのがこわくなって、学校にも行けなくなった。自殺を考えて高いビルの上に登ってとめられたこともある。そんなぼくを心配したお父さんがこの夏の学校に行かないかってさそってくれたんだ。
行く前は、学校の友だちとすらうまくいかないのに、ぜんぜん知らない人たちの中なんて、と思ったけど、開校式に来てみて、こんな明るいいい人たちがいるのかと思ったら、今まで自分は、何を考えていたんだろうと思って。人の目なんか気にしないで自分の思うとおりに生きたらいいと思った」
と、仲間に打ち明けたのでした。
学校の友だちや先生との関係に悩み、苦しみ、絶望し、孤独感の中で「死」も考えた彼が学校に通いだしたことの内面に、「ありのままの自分でいていいという安心感」「何をしても馬鹿にされないという仲間への信頼感」そして「みんなと楽しむ喜び」「自然のままに生きることのすばらしさ」が「生きる力」となって芽生えたことが「死」をも思いとどまらせる力になりました。
前節の彼女は、人間を人間らしくさせる「一種の雰囲気」が地域の異年齢集団や自治的な活動を大切にしている夏の学校の中にあるということを言いました。そして、それは普段の学校の中ではなかなか感じることのできない雰囲気であることも感じています。その2つの雰囲気の違いを彼らは行き来しながら、日常の学校や地域や家庭の中で自分はどう生きていったらいいのかを考えるのです。
現代の学校教育や社会の醸成する空気は子どもたちにとって優しく健康的なものだとは、とても言い切れません。教員ひとり一人、父母ひとり一人の努力をはるかに越える、ものすごく大きな力で汚染されつづけていると言っても過言ではないでしょう。そんな中でともすれば無力感を感じ、自己を否定してしまう子どもたちに「みんな同じ苦しみを背負っているんだ」「でも、その中で明るく生きていこうとしているんだ」という「仲間」の存在を深く心に刻み込むきっかけを幅のある異年齢集団だからこそ作り出しています。
もちろんそこには、「ひとり一人の人権を尊重し、意見の表明と、自己実現の過程を保障する」という子どもの権利を守り、発展させる視点が貫かれていればこそですが。
▽ 人間としての生き方を考える
小さい頃からK市のたけのこ少年団という子ども会に参加をして育ち、大学入試や教員採用試験では何回も挫折を味わいながらも、念願の高校の先生になった女性が語った「教師としての私の原点」です。
「私は今、愛知県にある全寮制の高校で教師として、寮の職員として働いている。学校が決めた校則は一切ない。学校の主人公は生徒たち。寮生活も学校生活も自分たちが話し合って決めたルールに基づいて運営をしていこうという学校だ。様々なイザコザや生活規律の乱れなどいろんな問題を抱えながら試行錯誤を重ねる中で毎日が過ぎていっている。
教員採用試験を何度受けても受からなくて、一度は教師をあきらめた私だった。でも、少年団や少年少女センターの行事の中で関わってきた中学生・高校生たち。彼らが語る学校や先生たちの姿。『真剣に話なんかしてもしょうがないよ。だって、僕らのいうことなんか先生達は十分の一も聞いてない。あーまたなんか言っているよって思っているモン』『友だちだって同じ。自分の損になることには関わらない』『学校ではまじめなことを言えば言うほど自分が傷つくんだ』…こんなことでいいんだろうか?
学校が、先生たちがなんか変だ。このままでいいのかなぁ。そんな思いが年々強くなってくる。自分一人の力なんて大したことないけど、もう一度やってみよう。こんな子どもたちの声をそのままにしちゃいけないよなぁ。
そんなところから再度、『教師』という道へのチャレンジがはじまった。
生徒が主人公。こう公言しているこの学校には今、四百名近い生徒が親元を離れて生活し、学校生活を送っている。ここに来るまでのあいだに不登校を経験した子どもたちが八割。教師や親に極度の不信感を持つもの、友人関係が作れずずっと孤独感を持った中で「いつか誰かに傷つけられる恐怖」におびえている子。いろんな心の痛みを背負って山の中のこの学校に集まってきた。もちろん前向きに『自分たちの自由な学校を作る』という目的で入学してきた生徒たちもいるが、多くの子どもたちがはじめの一歩を出すために、人並み以上の緊張と恐怖の中で自分と戦っている。
はじめは必死になって毎日を送っていただけだったけれど、このごろ痛烈に感じることがある。それは「もし私が、少年団や少年少女センターや夏の学校と、そこで一生懸命に生きている子どもたちと出会わずにここにきていたらどんな教師になっていただろう」ということだ。
生活が慣れてくると人間は気遣いに欠けてくる。自分だけの価値観で考えていると子どもたちの必死さが伝わってこなくなる。『これくらいのことができないでどうする』『これくらいできて当然なのにこいつらは…』なんて言葉が平気で出てくるようになる。
もしかしたら自分の思いや気持ち優先で『私がこんなに考えているのに』とか『言ってもわからないやつはほうっておけばいい』なんて、平気で考えるような、そんな大人になっていたかもしれない。つい、こんな感覚で生徒を傷つけているときが現実にある。
そんな自分に気がついて、本当にいやになるとき思い出すのが夏の学校の子どもたちのことだ。
『学校はいかなくちゃ』そんな私の言葉に泣き出してしまったあの子。彼女だって必死に生きてきてそれでも足が向かなかっただけなのに。結果として行き始めた学校。いつも玄関で繰り返していた『学校はいかなくちゃ』の言葉。支えるつもりの私の独りよがりの言葉が彼女を追いつめていたのかもしれない。でも、彼女が学校に行き始めたことは私にとっての喜びだった。
いろんな子どもたちがいる。それは、夏の学校もここも同じ。一週間だから一日一日が大切なのではない。子どもにとっては同じ一日のはずなんだから。そして、その時々を懸命に生きているのだから。
子どもたちに勇気を求めるのならまず自分が勇気を持とう。子どもたちの気持ちを慣れきった生活の中で受け流してしまう、そんな生き方だけは、そんな教師にだけはなりたくない」
学校だけの物差しや価値基準だけではない、もう一つの物差しと価値基準を持っているということ、しかもその物差しが、人間として失ってはならない、互いの尊厳と権利を守り、発展させるという理念に基づいて、立場や世代を超えた幅広い人たちのつながりの中で実践して行く活動の中で示される生の人間の声や姿であるということが「教師としての原点」「教師として何をしなければならないか」と自分の生き方を振り返り、考える力として働いています。
あらゆる場面が「学校ナイズ」され、あそびにすら企業が作り出す価値観に振り回されている子どもたちそして大人たちの生活を思う時、子どもたちはもちろん大人たちの中にも、この「もう一つの物差し」が育つことの意味は計り知れないくらい大きなものがあります。その「もう一つの物差し」を育ててくれる可能性を地域の異年齢集団作りの活動は秘めているのです。