子どもたちが健やかに成長するということは、いままで述べたように、発達の各段階にふさわしく仲間の輪の広がり、かかわりかたも深くなっていくことを意味していました。
しかし、現実の子どもたちの生活はどうでしょう。学童保育を卒会した4年生の子どもを持つお母さんがこんなことをいっていました。
「うちの子がね、学校の友だちに『手つなぎ鬼やろう』なんて声をかけたら馬鹿にされるからイヤダ!って言うんですよ。」
「今の子は、外でそういう遊びをしないのかしら?」
母親が20人くらい集まっている学習会で「今、子どもたちに流行っている遊びでスポーツ以外のものはありますか?」と問いかけた時、お互いに顔を見合ってしまいました。
同じ質問を小4の子にしたときには、
「いま、はやっているのはね、友だちの家で遊ぶことかな?」
「友だちの持っているげーをやったりとか本を読んだりとかしてるよ。」
「外では時々ラケットベースとかもするけどね。」
「でも、みんないろいろあって、けっこういそがしいからなかなかそろわないけどね。」
という応えが返って来ました。
小学校6年生の子と話した時に、こんなことがありました。
「おれさ、毎日、たいしておもしろくないんだよね。サッカーって言っても2~3人でボールの蹴りっこをしているだけだしさ。」
それなら広いところで人数も集めて思いっきりやればいいでしょうと問いかけると、
「広いグランドのあるところは、学区域の外だから、いっちゃダメって言われるしさ。」
と、さめた返事が返ってきました。
学童保育クラブの中でいろいろな集団の遊びを覚えたはずなのにそれを生かせるような仲間の関係が地域にはないのです。
塾やお稽古ごとは、それ自体は悪いものではありませんが、子どもたちが仲間との生活を築く上で、その関係を切り裂くくさびのような役割を果たしていることも事実です。
児童館の「こどもまつり」の「おみせやさん」をやりたいと仲良しの女の子が5人で申し込んできました。
「ポップコーン屋をやりたい」
「作るのは、300人分くらい」
「前の日に練習を兼ねて、作っておく」
話し合いはトントン拍子に進みました。
「あと、お店の看板を作ったりするのにもう一日、集まる日をきめようよ。」と、提案したとたんに、
「私は○○があるからだめ」
「わたしも!△ちゃんは、何もないから、看板つくりは、△ちゃんにやってもらえばいいよ!」
たった5人の子どもたち、一緒に楽しいことをやろうとしたはずなのに…。
おなじ「こどもまつり」の宣伝係を担当した5年生の男の子は、何週間も前から前夜祭に神輿をだそうと張り切って、友だちとリヤカーを改造した立派な神輿を作っていました。前日、作業が間に合わなくて、その子は塾を休んで最後の仕上げに精を出していました。
いよいよ当日、その子がなかなか現れません。家に電話すると、「昨日、塾を休んでしまったので、お母さんが怒って出してくれない…。」と、沈んだ声。そのお母さんを非難する訳ではありません。どの家にも、どの子にも同じような体験がきっとあることと思います。
小学4~5年生、この子たちに一番必要なのは、いったい何でしょう。
爆発的エネルギーを内に秘め、時には「社会の」のわくをはみ出すような「スリル」ある体験をいっぱい重ねながら、「親友」「仲間」といえるような関係を作り出していく大事な時代、からだごと「仲間」と、「社会」とぶつかりあう中で「正義」「不正」を知り、やがて「自分としっかり向き合う」「思春期」を迎えていく。
子どもたちから奪われたのは、異なる時間だけではない、子どもたちが人間らしく成長する上でもっとも大切な「時代」がスッポリ抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。
学童保育を卒会する4年生は、実は、いま、述べたような子どもにとって欠かす事のできない、その子の人生にとって大事な「節」をむかえる ─ まさに「その瞬間」なのではないでしょうか。