緊急アピール~川崎、少年事件に関連して~ 

緊急アピール

地域に民主的な子どもの組織を育てましょう

川崎、中1男子殺害事件に関連して

 

少年少女センター全国ネットワーク

 

§「ひとりぼっち状況」の克服のために

 

川崎の中1男子殺害事件が連日のようにマスコミを賑わせています。報道に触れるたびに心が痛みます。加害少年の顔写真や氏名がネットで晒されたり、加害・被害にかかわりなく家族の生活や子育てのありように対してのパッシングがあったり、感情的に重罰を求めるような糾弾が一部で行われていることは、子どもの権利の問題として見過ごすことはできません。

少年少女センターは、子どもたちの権利を真ん中に、異年齢の子ども組織を地域に育てる活動を続けてきました。「ひとりぼっちの子どもを地域からなくそう」が私たちの合言葉です。「ひとりぼっち」は、単に「一人でいること」を意味しているのではありません。家に居ても、学校に居ても、友だちと群れていても、満たされることのない寂しい思いを抱えて生きざるを得ない状況に追い込まれている子どもたち。その状況を「ひとりぼっち状況」として捉え、お互いの生命と尊厳をたいせつにし合う子ども-青年-おとなの異年齢・異世代の関係を地域に育てたいと願っています。

私たちは、今回の事件から何を学び、何ができ、何をすべきなのかいくつかの視点から考えてみたいと思います。

 

§子どもの権利を軸にした異年齢集団を地域に

 

一つは、「子どもの権利を軸にした異年齢集団を地域に育てる緊急性」です。

 遼太くんと加害少年たちは、バスケットボールのパークで知り合ったと言われています。母子家庭になり、地方から引っ越してきた遼太くん。母親が子どもたちを養うための仕事に追われ、遅い時間まで家族みんなと過ごすことができない彼にとって、優しそうで、力になってもらえそうな年上の少年たちのグループは「あこがれ」でもあったかもしれません。

学校や部活では得られない、気さくで、自由で、楽しそうな異年齢の仲間、集団を「居場所」のひとつと感じることは、「普通」のことです。遼太くんがラインなどを通して気さくに彼らと交流し、遅くまでゲームセンターや公園でたむろして遊んでいたことも「特別」なことではありません。

遼太君が殴られ、顔にあざを作ったことを知った中学生グループが、加害少年の自宅に押しかけたことが報道されています。同じような境遇の同じような行動をとる少年少女のグループが他にも少なからずあるということでしょう。

一般的には、地域での異年齢の子どもたちとの付き合いや青年たちとのつきあいは、子どもたちに生きる目当てや生きがいを与え、家庭や学校とは違ったモノサシで互いを認め合うことで自尊心を持って育つ力になります。

しかし、過度に競争的な現代社会では、社会的弱者である少年少女を取り巻く、深刻な暴力的・退廃的文化状況の中で、大人たちが想像できないほど、非人間的で激情的な行動を内在する集団にいつでもなり得ます。

 

さげすみや、からかい、侮蔑、脅し、否定などの言葉による暴力。

無視、排除などの態度による暴力。

二の腕を殴り合う、太ももを蹴り合う、根性焼き、刃物をちらつかせ体に当てるなどの「力」を誇示し合う暴力。

 

こうした暴力が、さすらう少年たちの間で日常的に繰り返されています。「ぶっ殺す!」「消えろ!」などの文句も彼らが好むゲームやアニメの世界では極めて当たり前の文化です。「親を殴れないから、壁を思い切り殴ったら、骨折しちゃった」「イライラして、家の壁を蹴り破ったら、足を骨折しちゃった」「家の壁は息子のパンチで穴だらけ」悔しさやいらだちを自分の骨を砕くほどの力いっぱいの「暴力」で表現してしまう少年たちは少なくありません。「体罰」をはじめ、「罰」による「しつけ」や「指導」も当たり前のように子どもたちを襲っています。

たくさんのサインが加害・被害少年双方やその周囲から出されていたにもかかわらず、それが見過ごされたり、流されたりしてしまった背景の一つには、彼らを困った行動を繰り返す「負け組」の集団で、そこに起こることは自己責任で、何か起こしたら厳しく罰せればいいし、そういう集団にはかかわり合いを持たないほうが「利口」で、巻き込まれることは自分も「負け組」になってしまうという大人たちの無言の価値観があり、遼太君のことを心配していた子どもたちも大人に言えば、「関わるな」と言われることを感じていることがあります。

子どもたちには幸せになる権利があります。存在と尊厳をたいせつにされる権利があります。彼らは、そういう権利を教えられ、自覚し、権利を実現するために共に歩んだり、支えたりしてくれる仲間や大人たちの存在を感じながら育ってきたのでしょうか。

地域には数多くのスポーツや文化活動に取り組む子どもたちのサークルがあります。学校はもちろんのこと、子どもたちにかかわるすべての人たちが、あらためて「子どもの権利」をしっかりと理解し、子どもたちに正しく伝え、権利に基づく彼らの行動を励まし、支えていかなければなりませんし、子どもの権利実現にまっすぐに取り組む少年少女センターの子ども組織作りの活動を広げていかなければなりません。

すべての子どもの組織が「子どもの権利」を軸にした活動を地域で展開し、ドロップアウトしそうな子どもたちを権利の主体者の一人として受け入れていくことが必要です。

 

§真に子どもの権利を支える児童福祉施設の充実を

 

二つ目は、子どもたちの生活-特に、困難な状況にある子どもたちの生活-を丸ごと支える児童福祉施設-児童館、学童保育の拡充・整備の問題です。

川崎は全国に先駆けて学童保育と全児童対策事業を一体化しました。「わくわくプラザ」と呼ばれるこの事業は、保育を必要とする子どもたちを「定期利用者」と名目上区分して希望者にはおやつも与えるとしていますが、基本は、「どの子も区別せずに」ということで、困難を抱えやすい子どもたちの生活や育ちを丸ごと捉え、家庭と協力しながら育てていくということが実態上行われていません。

 どこの全児童対策事業でも、学年が進むにつれて全児童対策事業を「つまらない」と言って通わなくなる子が増えてきます。特にケアの必要な家庭や子ども自身に課題のある子たちこそ、全児童から姿を消していく可能性も高いのです。

 専門職の配置も不十分で非常勤や短時間シフト勤務の職員も多く、労働条件も良くない中で、夜遅くまで働き、休みも取りづらい生活をしている親たちと連携をとりながら、保育時間だけでなく、家庭や地域での時間も含めてケア、サポートしていくこともできませんし、そもそもそういうことを制度として要求していないのです。

家庭も寂しい、全児童もつまらない、児童館も規則詰めでつまらないと感じる子どもたちは仲間を求め、つるみ、「楽しみ」や「居場所」を求めて地域を徘徊することになります。小学校低学年~高学年と誰にもサポートしてもらえない寂しさをつるむことで解消しようとしてきた子どもたちが数多くいて、学校をドロップアウトして、地域にたむろする中高生と接点を作っているのです。

 子どもの福祉の充実は、子どもの権利の重要な柱です。それが不十分な機能しか持っておらず、権利を阻害されかねない子どもたちの生活や育ちを支えられていないことが問題です。

 せめて、子どもたちが安心して生活し、指導員や大人たちと気軽に相談できるような学童保育や児童館が地域にしっかりと確立していたらどうでしょう。今回、事件に関わった少なくない子どもたちや家庭もそういう場で豊かにつながりあっていたらどうでしょう。

川崎のわくわくプラザが全校で実施されたのは2003年、12年前のことです。今回の事件に関わった子たちが小学校に入学する前のことです。

 川崎市は、全国にも先駆けて、「子どもの権利条例」を制定し、子どもの権利の充実をめざした実績もある自治体です。あらためてその精神にのっとって、学齢期の子どもたちの生活を丸ごと支え、育てる学童保育の復活と18歳までの子どもたちの地域活動の拠点であり、地域の子どもの福祉向上の拠点でもある児童館の拡大・充実を求めたいと思います。

 

§権利の主体者としての子どもの立場から

 

学校は、家庭は、地域は、友だちは、教師は、周りの大人たちは、家族は、といろいろなことが新聞・テレビを通して言われていますが、子どもたちのおかれている状況から見れば、氷山の一角のように思ってしまいます。「加害者は」「被害者は」という論点だけでなく、少年たちの育ちを広く覆っている福祉政策の著しい後退と、子どもの権利条約批准20年を過ぎてもなお、国連が繰り返し改善勧告をしている「過度に競争的な学校教育」を改めないばかりか、さらに激しい競争に子どもたちを巻き込み、子どもの権利をないがしろにしている社会の歪みが少年たちの心の中に、得体の知れないモンスターを生み出してしまうことを、子どもたちの側から見ていかなければいけないのかなと感じています。

あらためて、子どもの幸せを願うすべてのみなさんに、「地域に民主的な子ども組織を育てる」活動に参加しましょう、学童保育や児童福祉の変質・後退に対して、子どもの立場に立った運動を進めていきましょうと呼びかけたいと思います。

 

2015310

 

 

子どもも青年も親も「共育」の場を求めてい

  

  子どもにかかわる事件に接するたびに思い出す。

弟は新品の靴なのに、兄の靴はいつも穴あきだったアイツの事。

学校で問題になっていたアイツの事。

教師をなぐって停部になったアイツの事。

学校に行けなくなって、家にこもって昼夜逆転の生活でガリガリに痩せていったアイツの事。

昼ごはんを家で食べられないのか、いつもセンターをうろうろしているあの子の事。

鍵がなくて家に入れないのだと言って夜遅くまで出歩いていたアイツの事。

いつの間にか友達にもこっそり避けられるようになって1人であそんでいたアイツの事。

いろんな気になる子がいて、その子をまるごと受け入れようとしてきたし、働きかけてきた。

その子の居場所になれば、ほかの親たちもその子の事を見つめてくれるようになる。

そうやって、「友遊」には、いろんな大人が関わり育てる、共育ができていった。

私たちが出会っていないだけで、そんな風な場を求めている子どもがいるかもしれない。 (町田あそび会「友遊」20代青年)